□ [ケータイ小話] マクロなケータイ論03: それってホントにケータ(ザ)イ的?
貧乏学生生活の糧にと、家庭教師をしているのですが、これがなかなか面白いんです。普段、ありそうでなかなかない、中高生とのコミュニケーションの機会・彼らの文化の片鱗を見ることが出来る機会として、研究の上でもとても参考になります。(もちろん、勉強を教えるのも、仕事ですしちゃんとやってますよ。)
そんな、家庭教師をしているときに、相手の生徒と話していて、ちょっと気になる事がありました。どうも、物事の、「はやり方」が、自分たちの世代とはちょっと違う気がするんです。
ある日、中学校の生徒に、授業前の雑談で今学校ではやっているものを聞いたとき…
「うーん。特にないかなぁ?でもカードでは良く遊ぶよ。でも、クラス内でもやっているカードゲームの種類が違うんだよね。」
という答えが返ってきたり、授業をやろうと部屋に入っていったら、某携帯ゲーム機でゲームをやっていて、その様子を覗き込むと…(ちなみに上と同じ子です。)
筆者:「あれ?これ○○ーのワンダーランドじゃん。これかなり昔(当時にして、3,4年前のゲームだったようです。)のだよね?」
生徒:「うんそうだよ。でも、最近友達の間ではやってて、2,3人でやってるんだ。友達がダーク○○○○を持ってるんだけど、全然作れなくてさ…<以下略>」
そんな、やり取りがなされたり。一方で、高校生の男子の家庭教師に行ったときは、部屋に『魁男塾』や『聖闘士星矢』などの、自分たちの世代(下手をすればそれ以前)のマンガの単行本が所狭しと並べられていて、とてもびっくりしたり。
どうも、自分たちのころ(約10年前)と比べて物事の流行る範囲が変わっている、クラス単位→小グループ単位といったように範囲が小さくなっている気がします。自分たちの世代も、兄がやっていた昔のゲームをやることもあったし、姉が呼んでいた昔のマンガを読むことも合ったように思います。でも、それは個人的なブームか、仲間内で流行っても、一瞬か、短い間の話題に過ぎなかった気がするんです。(10年も経つと記憶がおぼろげになってくるのですが…) もちろん、上で引き合いに出した彼らも、中学生の子はハリポタにはまり、高校生の子はモー娘。が好きでした。そういう意味では、世の中の流行から完全に外れている訳じゃないんです。ただ、一方でそれに完全に乗り切ることはなく、グループ内の趣味にも興じています。
少なくとも、自分たちの頃には、例えば「『ごっつええかんじ』を見ないと翌日の学校の話題について行けない」などといった、流行に乗らないことの恐怖感がありました。それが、今は、どうやらないか薄いように思うんです。
それって一体なぜなのでしょうか?「メディア」という側面から、少し原因を考えて見ることにします。
よく言われることかもしれませんが、マスコミと呼ばれるメディアが、「マス:mass」ではなくなって来ています。massには、「密集した」と言う意味がありますが、どちらかというと今のマスコミは、ある世代にとっては、ただ範囲が広いだけの Wide Communication "ワイコミ"になりつつあるのではないでしょうか?自分たちの世代では…
だった情報の価値が、今の子供たちにとっては…
もしくは
(友人から得た情報)>(マスコミから得た情報)
になりつつある。そのように見受けられます。自分たちが小中学生だった時代は、マスコミを中心にローカルなコミュニケーションが展開していました。でも、どうやら今はちょっと事情が違うようなんです。
この変化の原因として、メディアの構造変化の視点で考えると、いささか単純過ぎる図式かもしれませんが(あえてここでは、仮説を立てるという意味でも単純な思考でいこうと思います。)、メディアの使用時間比率の変化が大きな影響を与えているのだと思います。接触しているメディア・情報の中の、マスメディアから得られる情報が減れば、その影響力も減ると言う考え方です。マスメディアの王様と言えば、なんといってもテレビ(特にキー局)。各種の生活時間調査では、テレビの視聴時間は延びているが、同時に、PCやケータイなどパーソナルなメディアの使用時間も延びており、結果的にテレビから得られる情報の比率は低下しているともいえます。また、テレビの視聴時間が延びていると言っても、それは、リタイア後の60歳以降の年齢層の視聴時間の増加が大きいとも言われており、ケータイの利用の多い若年層の視聴時間は、あまり伸びていないというデータもあります[注1]。そのことを考慮すると、特定の層-特に若年層-に至っては、テレビを中心とするマスメディアと、通信メディアの影響力は、かなり近いレベルに至っているのでは?と想像をすることが出来ます。
「マスメディアと通信(パーソナル)メディアの影響力の接近・逆転」という見方をする背景には、もう一つ理由があります。通信メディアの積極的に使う人々には、「選択的」であるという特徴があるんです。自分の好きな通りにコンテンツを選べる(電話ですら、気に入らない場合は、とらないで済ませるという行為が一般的になりつつある。)通信メディアに慣れきった人々・生活のベースにした人々は、他のメディアにおいても、選択的にコンテンツを消費するとも考える事が出来ます。結果、見ていても、見ていない「ながら」視聴が一般的になり、気になったときだけ視聴する。通信メディアや個人間のコミュニケーションによって選び取られた自分の嗜好に合わせてマスメディアコンテンツも消費する。(HD&DVDレコーダの活用などもその一例でしょう。) そのようなスタイルが、広く一般のものとなってきているように思います。それは、マスメディアをマスメディアとして消費すると言うよりも、常に選択的に利用する通信メディアを、補完・強化するメディアとして、マスメディアが存在することを意味しており、マスメディアのマスメディア的な性質は、彼らの中で弱まっていくのだと思います。
上では、「マスメディア」という言葉を連呼してしまいましたが、そもそも、マスメディアとは一体何なのでしょうか?
私は、「マスメディア=現代の社会システムの礎」だと認識しています。 巨大すぎて実感できない近代国家を実感させ、繋がりえない範囲を繋げていた、近代・現代の「つながり」そのものであると思うんです。現代の諸制度は、マスメディアが持つ諸機能・作用を前提として、設計されています。例えば、その諸制度の「範囲」。7月11日が投票日の、選挙が、色々と話題になっていますが、普段会う機会もなく直接評判を聞くこともない人を選挙し、自らの代表と出来るのは、マスメディアの存在があるからこそだと思います。(もちろん、弱くなったとはいえ、各種利益団体などの影響もたぶんにあるとは思うのですが…)では、そのマスメディアの存在感が減少すれば、選挙をはじめ、社会システムを支えている諸制度のシステム機能不全を起こすのは必然ではというのが私の考え方です。[注2]
もともと、ケータイとテレビの関係性の話題を扱おうとはじめた話なので、少し話は飛ぶかもしれませんが…
上の話だと、現代の社会システムの不全は、ケータイをはじめとするパーソナルなメディアの伸張が悪い。というシナリオをつい描いてしまいがちになりますが、本当にそうなのでしょうか? ケータイインターネットの存在は、デジタルデバイドそのものである。なんて言い方をされたり、他分野でもなにかと「悪者」扱いのケータイなのですが、ケータイというメディアは「悪者」なのでしょうか。
社会システムは、アイデンティティと密接な関係を持っています。アイデンティティの担い手が、社会システムでも中核をなのです。いつからか、マスメディアが提供する国という巨大な仮想のまとまりや、様々な社会的ラベルは、その受け手に、確固たるアイデンティティをもたらすことが出来なくなっていたのではないでしょうか?少なくとも、若年層にとっては、マスメディアからアイデンティティを得ることが出来ず、アイデンティティを得るための身近で手軽な手段として、ケータイなどのパーソナルなメディアによる断続的なコミュニケーションを選択しているのではないでしょうか?であるならば、社会システム上の機能不全が、新たなパーソナルメディアの爆発的普及を招き、その爆発的普及が、機能不全を更に高めていると言う結論になります。結局は、卵が先か鶏が先かの議論で、決着を見ることが出来ませんが、いずれにせよ、悪者探しに終始せず、メディアの範囲に合った制度設計をしていくことが、今後の急務となってくるようにおもいます。変化への対応力や、メディアに想像可能な範囲を考え、実際のガバナンスの規模(範囲を)もっと細かいものに、ケータイ的にしていくことは、必須となると私は考えています。
話を戻しますが、放送メディアの影響力が下がると言うことは、放送メディア(特に民放)にとっては、収益の大半をしめる広告の影響力・集金力も下がると言うことであり、悪循環を引き起こす原因となります。(実際に、ここ数年対テレビ広告費は減少傾向にある)[注3]
その問題の解決という文脈上に、ケータイなどのモバイル機器でテレビ放送を受信するという試みがあがる事があります。実際に、vodafoneの端末には、アナログ放送だが受信できるものが増えていますし、俗に「1セグ放送」と呼ばれる地上派デジタル放送でも、端末の開発などが急ピッチで進んでいます。純粋に端末台数も増えますし、普及が遅れている地上派デジタル放送に対する起爆剤としても期待を受けているんです。
しかし、実は、このケータイに放送メディアを載せるというアイディアは、そんな単純に割り切って考えられるものではないのかなと思っています。Itmediaなどで既に指摘されていますが、このアイディアを実現するためには、色々な課題が立ちふさがっているように思います。例えば、小さなケータイの画面で、出先で映像を見るという文化が根付くかという問題。さらに現状提供しているコンテンツで、その小さな画面にマッチたものとなるか・視聴形態にあったものとなるのかという問題。字幕や構図などが細かすぎて、小さな画面での視聴に耐えられない、番組が長すぎて出先の「空き時間」で番組をチラ見するという視聴形態に耐えられないとなれば、モバイル向けに別のコンテンツを作り直さなければならないわけで、それは、製作側にとっては大きな負担となります。そうすると、テレビ側にとっては、モバイルに進出するメリットがなくなくなりますよね?
さらに、上であげた問題点以上に、私がクリティカルだと思っているのは、そのビジネスモデルの問題です。先にも述べた広告依存型のビジネスモデルが、ケータイにプラットフォームをうつすとより難しくなってくるのではないないでしょうか。
現在のテレビ型の広告モデルは、ある種の「あいまいさ」が、そのベースにあります。テレビCMが度の程度の売り上げに貢献したかは、正直なところわかりません。(というよりも、それを追求する手段がない。あるとすれば、現場レベルのアンケートで、「この商品を購入したきっかけはなんですか?」という項目を調べるのみ。) 視聴率という基準もありますが、その視聴率も実は、ビデオリサーチの調査の場合、現在首都圏で、600世帯のサンプリングであり、先日の日テレの事件もあり、調査の過程としては、正確さを追求したものであるとは思いますが、サンプリングの意味で統計的な「あいまいさ」があるのは、どうしても仕方ないことなんです。一方、ケータイに代表される「通信メディア」には、テレビのような放送メディアが抱える「あいまいさ」は、本来は一切ありません。前回、前々回のコラムでも書きましたが、ケータイをはじめとする通信メディアというのは、知ろうと思えば、端末のすべてを知る事が出来るメディアです。当然、少なくともケータイ端末における「視聴率」は、ケータイ会社が本気になれば、ほぼ全数に近い形で、知る事が出来るようになります。おまけに、通信機能をもともと備えている事を考えると、そのCMからその場で購買へという形も容易に想像でき、少なくともCMの一次的な効果は観察可能になります。(ご存知の方は、インターネット上で現在注目されているアフィリエイトモデルという広告モデルをイメージしてもらえるとわかりやすいかなと思います。) ケータイ上の「テレビ」には、「あいまいさ」がどんどんなくなっていく可能性が高いんです。このことは、ケータイ上では、CMクライアントへの説得力という意味でも、現在のテレビCMのような、あくまで「マス」向けの「イメージ・認知」先行のCMが意味を失う可能性を示唆しています。上記にあげた、Itmediaの記事でも指摘していましたが、こうなった場合、放送局側としても、収入が激減しますし、CM製作側としても、1つの広告に使える予算が激減し、従来の業界構造が激変していく可能性が出てきます。まだ、余り本気なところは見受けられませんが、放送の世界でも、ケータイ型の少額課金モデルや、日本のマンガ型の週刊誌=単行本モデル(出版社は、週刊誌という認知のチャンネルを用意し、コンテンツの作り手は、それによって単行本が売れる事をインセンティブとして作品を書く)、CM映像をオープンにして、PtoPで流通させるバイラルマーケティングモデルなど、様々なビジネスモデルを検討していく必要が出てくるのかもしれません。
マーケティング的にも、マスマーケティングの限界が叫ばれて久しですが、インターネットの登場が、その限界に現実味を帯びさせたといえます。日本においては、ケータイがその決定打を打つ事ということもありえるのではないないでしょうか?ましてや、ケータイは、繰り返しになるが、非常に「選択的」なメディアである。見て「くれる」ことを前提としたような広告は、効果をなさないでしょう。如何に、ケータイを使用するシチュエーションに、広告を練りこむかが、ケータイ上での広告ビジネスを考える上で重要だと考えます。その意味では、身内贔屓になってしまい恐縮ですが、先日東京新聞にも取り上げられた、「クーポン打!」のシステムは、非常にそのつぼをついたものだと考えています。
「小さくあること」「積極的に『選択』されるものであること」それから、小檜山研の大木氏が指摘するように「このときここでこれとだけ」であること。世の中で、経済的になろうとするのなら、ケータイ的にならなければならない時代が、近づいているのかも知れません。
[注1]
2000年度に実施された、NHKの生活時間調査では、ケータイなどの時間が、会話・交際の時間に組み込まれており、あまりはっきりしない上に、ケータイの使用時間には、その使用に専念した時間という縛りもあり(テレビの視聴時間にはその縛りはない) 純粋な比較は出来ないようになっている。今年が4年に一度の生活時間調査の歳でもあるのでその辺りの調査集計方法の変化にも注目したい。
[注2]
『インターネットは民主主義の敵か』という本がありますが、その本の論旨にも近いように思います。
[注3]
日本の広告費の推移については、 電通 "データ&レポート" に詳しいです。ご参考まで。
