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2003年10月03日

□ [メディア小話] インターネットするアメリカ、ケータイする日本

 インターネットの爆発的普及には、常に思想的なものがまとわりついてきた。テレビの時代に作られ、インターネットにより再び脚光を浴びたマクルーハンの地球村の思想や、インターネットの技術的コンセプトである「自律分散協調」の概念は「責任のある個人が、積極的に情報を発信し対等に結び付き合う」という理想の社会像にまで発展し、メディアとしてのインターネットの爆発的発展に寄与した。いわばインターネットは一つのイデオロギーに支えれて育ったメディアなのである。

 同じく短期間に爆発的発展を遂げたメディアであるケータイは、それに比べてどうであろうか。ぱっとケータイを取り巻く状況を見回してみても、少なくとも日本では、あまりそのようなイデオロギー的要素は見当たらない。インターネットにおいては、既存の社会を壊すものとしての側面と、新たな社会を作るものとしての側面、双方が取り上げられてきたが、ケータイにおいては、マスコミや諸研究などでも、既存の社会的秩序を壊すものとしての側面のみが強調されてきた。最近になって主に海外の研究者やジャーナリストが、ケータイが生み出す社会的変動・新たな社会の形の可能性など指摘しているが、日本において、広く認知されているとはいいがたい。少なくとも、爆発的普及の背景には、イデオロギー的なものはなかったと考えられる。むしろ新しいメディアが起こす社会変動に対する抵抗を押し切って、普及を果たしてきたといえるのではないだろうか。

では、何がケータイの爆発的普及の要因となったのであろうか。色々な要素があると考えられるが、私は、ケータイはインターネットと、ある意味逆の普及を遂げたメディアだと考えている。

インターネットは「独立し責任ある個人」を対象に普及を遂げてきた。そのため、維持・管理など個人の責任ある振る舞いが求められる。ウィルスなどのセキュリティー問題を想像するとわかりやすいと思うが、インターネットをきちんと使用するためには、ある程度の経済力の他に、その責任を負い、維持・管理のために必要なことを理解し、実行していくだけの、知識レベルが求めらるのである。(本来は知識レベルなど求められないものなのかもしれないが、システムを作る側がそれを求めるのである。)結果、必然的にインターネットを使いこなすのは、ある程度の学歴や、家庭環境が必要になる。この事は、俗に言うデジタルデバイドの一つの原因となり、持つものと持たざるものの社会構造を再生産する。

一方、ケータイはどうなのだろうか。日本におけるケータイは、初期こそ、ビジネスマンのステータスシンボルとしての役割を果たしていたが、その爆発的普及の原動力となったのは、「女子高生」に代表される若年層の使用であった。経済的にも自立しておらず、学歴や知識レベルもばらばらな若年層にコミュニケーションのためのメディアとして受け入れられたのは、ケータイが「パッケージ化された」メディアだったからではないだろうか?ケータイは、パソコンに比べたら比較的廉価なメディアであり、さらに一度購入すると特別な不具合などが生じない限り、ソフト・ハードのアップデートを必要としない。つまりは、購入者には見えない部分、ブラックボックスを作る事で、購入の時点でソフトとして・ハードとして一つの完結した、パッケージ化されたものになっているのである。この事は、ケータイの保守・管理を容易にし、ケータイを持つことの障壁を少なくさせた。その結果「独立し責任のある個人」だけではない幅広い層に利用が広がることとなったのである。

このように、インターネット・ケータイのメディア的特長を整理すると、一つ興味深いことが見えてくる。

インターネットの中心地と言えばなんと言ってもアメリカである。インターネットは技術的にもアメリカをルーツとし、その普及も、確かに全世界規模ではあったが、やはりアメリカが中心であった。一方ケータイは、これも世界的規模であったが、日本は、その独特の発展の仕方が世界から非常に高い注目を浴びてきた。

アメリカといえばインターネット、日本といえばケータイ。両国を代表するメディアは、両国の社会体制の違いを表象してはいないだろうか?社会として、理想の形を常に提示し進歩主義を取るが、社会自体は二層分化が進んでいると言われるアメリカ。それに対して、社会としてはっきりとした主義主張を持たず、さらに多くの人が中流意識を持つ、誰もがあなたになりうるし、あなたも誰にでもなりうるような、真ん中に固まった、しかも流動的な社会形態を取る日本。現状として、インターネットするアメリカであり、ケータイする日本なのである。

さらに、このことを考えていく中で、メディアという概念を通して社会を考えていこうとするものとして、気にかかったのが、観察者・研究者としての目線である。観察者・研究者という知識を売り物にする職業を目指すものとして、やはり自分のあり方を擁護してくれる、知識を前提とする、インターネット的なものに興味が行ってしまうのは必然なことだと考える。確かに、そこに目線を向け、観察・研究を行うのは重要なことなのだとも思う。しかし、それだけでは社会というものの真の姿をより的確に捉えることは出来ないとも考える。事実、これだけ大きな社会的インパクト与えつつ、ケータイに関する客観的な学術的研究が少ないのは、このような目線の持ち方に問題があり、この事は、現代社会の構造をメディアという側面から考える上で、とてもマイナスに働いてしまっていると思う。人々の日常の中で、一体何が起こっているのか。変化が多く、混沌とした世の中だからこそ、自己の立場をある程度客観化し、その部分も注意深く見ていく必要があるのではないだろうか。

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